1.9.17

映画 Frantz の感想: 真実は決して正解ではない

これまた前の話になりますが、映画 Frantz を5月に見てきました。大変いい映画で、お勧めです。
第1次大戦後、1919年のドイツとフランス。戦争で婚約者のフランツを亡くしたドイツ人のアンナのもとに、フランツの友人と称するフランス人のアドリアンがやってくるところから始まります。最初はフランス人だからと敵視していたフランツの両親(特に父親)も、アドリアンの話を聞きながら死んだ息子のことを思い出し、打ち解け、まるで本当の息子のように接するのですが、アドリアンの本当の目的は、実は自分がフランツを殺してしまったことを謝り、許しを請いに行くことでした。アドリアンはフランツの友人ではなく、戦場の塹壕で鉢合わせしてしまった敵であり、アドリアンは緊迫の一瞬の後にライフル銃で撃ったものの、フランツの胸に入れてあったアンナからの手紙を読んで、恋人がいることを知ったのでした。
映画を通してアンナからの視点から描かれているのは、オゾン監督によると、ルビッチの原作(『私の殺した男』1932年)とは異なるものにしたかったからだそうです。もともと、モーリス・ロスタンの演劇(1925年)にヒントを得て制作を始めたところ、すでにルビッチの映画があることに気づいて落胆してしまったのだそうです。しかし、婚約者だったドイツ人女性から見た物語に変更すれば、ルビッチ版への返答になるだろうと考えて撮影に至ったといいます。オーストリア人のルビッチがフランス人兵士からの視点で映画を撮り、フランス人のオゾン監督がドイツ人女性の視点で撮る、という面白い試みだとインタビューで語っていました。オゾン版はアンナの視点から描くことで、最初からアドリアンの正体には気づかないように、何かもやもやしたものを感じさせながら徐々に真実に近づいていくようになっています。
「生きていくにはアートとフィクションが必要」というのがこの映画の複数の主題のうちの一つです。アンナはアドリアンから真実を告げられても、それをフランツの両親には伝えず、アドリアンが急遽フランスへ帰ることになったのは彼の母親の具合が悪いから、と嘘をつきます。フランツの両親の反応を知りたいアドリアンに対しては、「子供を殺された両親がとる態度は決まっています」と、これまた嘘を言い、アドリアンの思いを両親に伝えたことにしてしまうのです。そしてすべての嘘を貫き通します。両者の間に入って、それぞれの知りたいこと、思い続けていてほしいことを、そのままに保つために四苦八苦するアンナに、生きていくうえで、真実を知ることは決して正解ではないということを考えさせられます。
最後はルーブル美術館で、マネの『自殺』という絵画を観ている場面で終わります。「この絵は好きですか」と問いかけた隣の男性に、「ええ。生きようと思わせてくれるので」とアンナが決意に満ちた表情で、でもほほえみながら答えます。アドリアンがフランツと観た、と言っていた絵画で、他の場面でも出てきますが、人生にはアートとフィクションが必要という監督の考えがここにも託されていると思いました。1932年のルビッチ版はどうもハッピーエンドのようですが、私たちはその後を知っているため、アンナの前を見据える強さが一層際立っているように見えました。
フランツを間にして、アンナとアドリアン、ドイツとフランスがまるで鏡像のように描かれているのが見事で、勝った側も負けた側も、負った傷は深いのだということがよく分かります。原題 Frantz は、所有代名詞等を排して名前だけを提示することで、亡くなったフランツを軸に展開する鏡像関係をはっきりと打ち出すことに成功していると思います。対して、日本語版の題名『婚約者の友人』は一方方向のような、アンナから見たアドリアン側に片寄ってしまったような気がしないでもありません。確かにアンナの視点から見ればアドリアンは死んだ婚約者の友人(嘘ですが)ではありますが、この題名では、二人及び両国の対比・対応関係を掬いきれていないように感じます。私は Frantz のままでもよかったと思うのですが。
この映画をほぼすべてモノクロームで撮ったのは、「我々にとっては、この時代の映像はモノクロームである方がしっくりするし、喪に服している時期だから」というオゾン監督の方針だったとのことですが、実はカラー映像もあります。すべて分かったときに、カラーである理由は納得できると同時にとても切ないです。