30.6.16

財布を取り戻すまで4 大使館から財布が届いた

さて、ビザセンターから帰った次の日、早速連邦警察宛に、財布をすられたことと、財布の中に入っているであろうカード類の内容をメールを書き、そしてベルリン警察の盗難届を添付して送りました。ちなみに、ベルリン警察の担当者(盗難届を発行してくれた警察官)にもCcで送ったところ、その人からは、私の財布が連邦警察に届いているのを確認した、と返信がきました。
それから1週間ほど経った頃、連邦警察から連絡が来ました。確かに私の財布であり、カード類とコインは無事であること、もしドイツに来ることができないのであれば、在ベルリン日本大使館に送るので連絡を待つ、という内容でした。
ここで、在ベルリン日本大使館の領事部に電話して事情を伝えると、領事部宛てに詳細をメールを送るように言われました(「財布が戻ってくるなんて珍しいですねえ!普通はあり得ないですよ」とのこと。そりゃそうですな)。
連邦警察には、領事部にも伝えたので大使館へ送って欲しいことを伝え、領事部には送料を振り込み、明細をメール添付で送付。その時点で先週金曜日の3時を回っていたので、月曜日に振り込まれ、それを確認した大使館職員の方が当日発送、今日の朝ロンドンの我が家へ届いた次第です。
お世話になった方にお礼のメールを送ったら、連邦警察からは、「お役に立てて幸いです。ですが、私は自分のするべき仕事をしたまでです。迅速な対応を取った大使館にも、ぜひお礼をお伝え下さい(文法がやや怪しかったが意訳するとこんな感じ)」、ベルリン警察からは、「財布が戻ってきてよかったですね。次のベルリン旅行はもっと楽しいものになるといいですね(本当ですね・・・)」と返ってきました。
ところで、郵送方法を書留にしたので6.2ユーロでしたが、海外送金なので振込手数料が大幅にかかり、書留代よりそちらの方がよっぽど高くついてしまいました。が、財布を取り戻せたのでよしとするべきでしょう。
何か手がかりを掴んだら、決して離さず、我慢強く追い求めれば必ず何とかなる、ということを身を以て学びました。でももう勘弁してほしい。

29.6.16

財布を取り戻すまで3 アルファベットを電話で聞き取るのは難しい

連邦警察と地元警察をたらい回しにされたわけですが、ようやく目当ての部署に辿り着き、連絡先としてあちらのメールアドレスを書き留める段階になりました。しかし、メールアドレスを聞き取るというのは超難関。単語と文章ならともかく、単発の音を電話を通じて聞き取るというのは、結構難しいです。しかも、私も担当者も英語母語者ではないのでなおさらです。会話はだいたいこんな感じでした。
係員:「まずはb」
私:「えっ、bですか、pですか、それともv?」
係員:「bravoのbです」
私:「abのbですよね?」
係員:「そうですよ」
アルファベットにはフォネティックコードというものがあり、そのアルファベットが先頭に来る単語と一緒に伝えることで分かりやすくする通話表があるということを後で知りました。が、そのときはつゆ知らず。普段聞き慣れない単語をいきなり言われても、かえって混乱するだけでした(LimaのLとか)。なので、「abのbですよね?」のような確認をいちいちしていったわけです。それに、ここで聞き逃してメールを送ることができなかったら、財布を取り戻せない!という強迫観念に後押しされ、一文字ずつ、かなりしつこく聞き返しました。
係員:「次はp」
私:「pqrのp?」
係員:「そうです、Peterのp。次はo」
私:「lmnoのo?」
係員:「そうです、Oscarのo」
(中略)
係員「次はpunkt」
私:「・・・それピリオド(.)ですよね?」
係員:「そうそう」
ドイツ人なので普段使っている句読点がついドイツ語で出てしまったのでしょう。しかしこれだけではなかった。
係員:「次は####」
私:「えっ、何ですか?」
係員:「####」
私:「はあ?」
「####」がまったく聞き取れん。ただ、それまでに言われた文字数の長さから、おそらくこれではなかろうか、と思い当たるものが。
私:「それって、アルファベットのaが円の中に入っているものです?」
係員:「それですよ!」
そう、@のことでした。しかし、なぜ世界中で使われているものなのに名前が国によって違うのか。これぐらい統一すればよいではないか。ちなみに、ドイツ語ではこの記号のことを「Affenschwanz(猿のしっぽ)」とか「Klammeraffe(ぶら下がった猿)」などと言うんだそうです(そういえば今年は申年ですね)。音数が長かったように感じたので、この2つのうちどちらかを係員は言ったのだと思います(多分後者のような気がする)。
こんなやりとりをあと数分続けて、最後にもう一度すべて確認し、後でメールを送ることを伝えて電話を切ったときには、最初に電話をかけてから40分ほどが経っていました。この間、相手に何とか状況を伝えようと必死になったためか、話せば話すほど滑らかに英語が出てくるのを実感。が、ぐったりと疲れました。それでも、財布のありかと、連絡する相手が分かったのは幸いでした。
電話を切ってからずっと横で聞いていた旦那が言いました。
旦那:「いやあ、すごかったよ。話している間にどんどん英語がうまくなっていってたよ。こんなに話せたらいいよなあ」
私:「そう?じゃあお財布落としてみる?鍛えられるわよ」
旦那:「・・・いや、遠慮しとくよ・・・」


28.6.16

財布を取り戻すまで2 連邦制の落とし穴

翌日、ソリフルに着いてからビザセンターに行くまでに時間があったので、ベルリン警察署でもらった盗難届に書かれていた遺失物保管所に電話をかけてみました。
しかし、「ここには無い」の一点張りでらちがあかず、「ここに電話して」と連邦警察のとある部署の電話番号を言われて切られてしまいました。
仕方がなくその番号にかけると、最初は「英語は無理です」と言っていたものの、途中で英語が話せる人に交代してくれたので、こちらの状況を伝えることができました。しかし、その男性の係の人が署のパソコンネットワークで調べてくれたものの、私の財布は登録されていないと言うのです。その人曰く、ドイツは連邦国家なので、警察も連邦警察と地元警察に分かれており、パソコンのネットワークシステムも別物なんだとか。なので、財布を拾った人が届けたという地元警察に聞いてみるとよい、とのことでした。
それで、その地元警察署にかけてみたら、やはり「英語は無理」「ここには無い」とぶっきらぼうに言われ、挙げ句、別の番号に電話するようにと番号を言われてまた切られる、という始末。
さすがに心が折れそうになりましたが、ぐっとこらえてまた電話をかける。かけた先は連邦警察の、先ほどとは別の部署。ここもたらい回しにするのだろうかといぶかしんだのですが、対応に出た女性係員が調べてくれたところ、地元警察から連邦警察のどこかの部署(失念)へ私の財布が送られたことが分かりました。「ここにはあるから安心して下さいね」との言葉にどれほどほっとしたことか。ただ、ベルリンで、電車の中ですられたと伝えると、「彼らうまいのよね〜。そう思わない?」と、とても陽気な返事が返ってきました。「あなたがそんなことを言っちゃ駄目でしょう。取り締まりなさいよ!」と言ってやりたかったけれども、親切な人だったのでこらえました。
「ではここへ電話して」と言って渡された番号はしかし、先ほどかけた連邦警察の部署と同じ番号。まだあちらに届いていないだけだから、メールで詳細を送りたいと伝えればよいと助言をもらい、またかけ直しました。
男性係員には「また君かい?」と驚かれましたが、まだ登録されていないだけで、もうすぐそちらに届くはずだと説明し、メールを送ることで合意。「じゃあこれからメールアドレスを言うからペンと紙はある?」と聞かれ、メールアドレスさえ聞ければこっちのもんだ!と意気込んだのですが、これが一苦労でした。

27.6.16

財布を取り戻すまで1 フェイスブックに登録しておいてよかったこと

ベルリンですられた財布が、近日中に帰ってきます。もう幸運以上の幸運としかいいようのないこの出来事は、フェイスブックに登録していたことで起こりました。
実はスリに遭った日の夕方に、見知らぬ人からフェイスブックのメッセンジャー経由でメッセージが届いていました。ただ、私は普段から、見知らぬ人のメールやメッセージは絶対に開けないので、そのメッセージも放っておいていました。
それが、BRPカード申請にソリフルまで行く日の前日夜、同じ人からまたメッセージが届いたのです。
「またか」と思って消去したのですが、2回も送ってくるならさすがに何かあるのだろうと思い、パソコンでフェイスブックを開けてみてびっくり。「あなたの財布を拾ったので渡したいのだけど」と、スリに遭った日にメッセージが入っていました。おそらく財布の中に入っていた学生証を見て、それをもとにフェイスブックを探したのでしょう。私の顔写真と在籍中の学校名を載せていたので見つけることができたのだと思います。
「財布が返ってくるかも!」という興奮と、「この人、犯罪者だったらどうしよう」という不安と戦うこと10分、とにかく今持っているのか聞いてみようと旦那と意見が一致し、思い切ってこちらからメッセージを送りました。返事が遅くなったことを侘び、連絡してくれたことにお礼を言い、今財布を持っているかと聞いてみたわけです。
すると、「地元の警察に渡しました」と返信が来たので、警察署の住所と、届出人の名前を教えてもらいました。お礼を言い、その日はもう遅かったので、明日ベルリンへ電話をかけることにして就寝。
しかし、ベルリン警察とのやりとりはそう簡単ではありませんでした。

24.6.16

EU離脱が決まって思う今後のこと

EU離脱派が100万票以上の差をつけて勝ちました。こういうことになるとは、と正直かなり驚いています。先ほどキャメロン首相の発表があったばかりで、今回の結果による混乱を収めるために10月までは続投すると言っていました。イギリス国内にいるEU出身の人々(特に医療関係者)の不安を払拭したいとの思いはあるでしょう。ただ、実際にEU離脱手続きに入るための第50憲章 (Article 50) の引き金を引くのは新首相になるようです。キャメロンは、「今まで幸運が続いていたのに、最後の最後で運に見放された首相」と言われています。

友人達もこの結果を嘆いていました。彼らにとってみれば、EUに入っているイギリスしか知らないわけで、離脱したらどうなるのかを本当に心配しています。
SOASの今後も課題だらけです。EU圏からの学生を見込めなくなったら、経済状況のまったく芳しくない学校なので、「これでSOASはUCLに身売りしてしまうんじゃないか」との懸念が出ています。ただ、EU圏外からの学生をもっと取れば(特に中国)、彼らからは高額の授業料を取れるのでその方がいい、という意見もありますが。次の政権が高等教育に対してどう対策を取るのか、目が離せません。でも授業料は毎年上がっていくんですよねえ。これは変わらない。

私ら夫婦が昨年9月にイギリスにやってきたときは、1ポンド190円近かったのに、今や140円台です。何なんでしょう、これは。不動産屋に預けていた敷金を考えると、頭を抱えたくなります。学費も今の為替で計算したら、去年から60万円も安い。つくづく、政治と経済は分からんものだと思います。

23.6.16

BRPカード取得まで

BRPビザを取得してイギリスへ帰ってきた翌日、早速BRPカード取得手続きにかかりました。
UKVIのホームページから個人情報を登録し、メールで送られてきたリンクから飛べば、必要な書類を説明しているページや予約ページに辿り着きます。ビザセンターとそこへ行く日を選んで料金を払えば予約完了ですが、国籍によって赴くビザセンターが異なるので注意が必要です。日本人が行くことのできるセンターはロンドンには無く、私はバーミンガムに近いソリフルという街に行きました。
それから計20枚ほどの書類をダウンロードし、必要な箇所に書き込み、写真を用意し、他の必要書類も用意しました(最初にBRPを申請したときに持参した書類一式と、配偶者ビザなので戸籍抄本の英語訳、ベルリン警察作成盗難届の英語訳)。なぜカードをなくしたのか理由を書く欄がありまして、そこには自分の落ち度ではなかったということを説明するために、スリに遭った状況をなるべく詳細に書き込みました。

さて予約日当日。朝8時台の電車に旦那と乗り込むこと30分ほどでしょうか、突然携帯が鳴りました。誰だろうと思って出てみると、ビザセンターの係員が、「今日の予約なんですが、他の人で立て込んでいまして、別の日にずらせないですか?電車のチケット代は払いますので」と言ったのです。
別の日にされてはたまらない、というよりもう電車に乗ってるよ!ということで、「もう電車でそちらに向かってます」と言うと、「それならいいです」と電話を切りました。何という役所仕事だ、そっちの都合でこちらの予定を乱すなんて!と腹立たしいかぎり。

その後は特に支障は無く、無事書類を提出し、その4日後にBRPカードを受け取りました。優先ビザにしたから早く届いたわけですが、高額の費用にため息をつきました(すまぬ、旦那よ・・・)。

ただし、悪いことばかりではなく、良いこともある、ということをしみじみと思うことがありました。それは次回。

20.6.16

チェコの地下鉄駅で見たもの

友人達を見送り、旦那が到着してから泊まったのはI. P. Pavlova (イー・ペー・パヴローヴァ)という駅から歩いて10分ほどのホテルでした。
駅に着いて改札を出る直前、目にしたものがこれ。犬たちが電車の中で人間的な活動に従事しています。

近寄って撮影。

駅名からも分かるとおり、「パブロフの犬」で有名な、イワン・ペトローヴィチ・パブロフの名を冠する駅ですが、なぜ彼の名が駅名になったのかは分からずじまいでした。
そして何よりもこのシュールな絵。日本の某CMを上回るシュールっぷりに、シニカルな表現が好きというチェコ人の気質を感じ取ったのでした。


19.6.16

ハプニングだらけの旅5 プラハ2

これは私の体験談ではなく、友人の友人であるTのものです。
プラハという場所は、実に細かい所でお金を旅行者から取っていきます。Tはプラハ城の近くにあるペトリンタワーに登り、帰るためにケーブルカーに乗りました。ところが降りるときになって、駅員から「学生証を見せろ」と言われたのだそうです。
そこで大学の学生証を見せたところ、「これじゃだめだ、国際学生証じゃないと」と言われ、そんなものは持っていないし、別に通っている大学のものだからいいじゃないかといっても係員は首を縦に振らず、罰金800コルナを巻き上げられたというのです。
Tは怒り心頭に発し、「プラハを燃やしたい」と息巻いておりました。
インターネットを見ていると、「赤信号なのに道路を横断したから罰金」とか、「チケットを改札に通さなかったから罰金」など、旅行者を狙ったとしか思えない事件が多発しているようです。
プラハへ行かれる皆様、くれぐれもご注意ください。正しい場所と青信号で歩道を渡り、チケットはちゃんと購入して改札に通しましょう。

12.6.16

ハプニングだらけの旅4 プラハ1

さて、お次はプラハ。
プラハ城を見終わった後、ロブコヴィッツ城を見たい私とA、市内で髪を切りたいVとそれにくっついていくことにしたPの二組に分かれて見学することになりました(なぜかプラハで髪を切る旅行客が多い)。
ロブコヴィッツ家はプラハの苦難の歴史とは切っても切り離すことのできない家で、三十年戦争の引き金となったプラハ投擲事件の被害者を匿ったのもこの家。大変裕福で、広大な土地や膨大な美術品コレクションを所有していましたが、第2次大戦前にナチスの手を逃れて国外逃亡せざるを得ず、当然財産は没収。やれ戦争が終わって財産が返却されたと思ったら、今度は共産主義国家になってしまってまた没収され、一族はチェコが民主主義国家になるまでの数十年間を、やはり海外で過ごさなければならなかったといいます。今はプラハに戻っているようで、その膨大なコレクションを管理・公開しています。ちなみに、オーディオガイドではご本人達が説明しています。
ハイドンやベートーヴェンなど、大物作曲家・演奏家を援助していたことはここで初めて知りました。特に、ベートーヴェンには毎月給料を支給していたようで、交響曲3番(「エロイカ」)、5番(「運命」)、6番(「田園」)はパトロンであったこの家の当主に捧げられたのだとか。直筆の楽譜も展示されていて見応えがありました。
その他の展示品もすばらしく、私とAは終始テンションが上がりっぱなしの状態で、興奮冷めやらぬまま城を後にしました。そして他友人二人と会うため、待ち合わせ場所へ向かいました。
到着して不思議に思ったのは、Vの髪の毛の長さがまったく変わっていないこと。理由を聞いてみると、午後4時頃に美容院に着いたものの、閉店時間だったらしいのです。仕方がないので、おいしいと評判のレストランに入って時間をつぶすことにした二人。ウェイターが特に何かを勧めることもなかったので、メニューを広げて料理のそばに星印がついていた、チーズを揚げたようなものと、ビールを頼みました。ところが、これが特においしいと感じられるものでもなかったようなのです。
しばらくしてウェイターがやってきて、「味はどう?」というようなことを聞いてきたので、「うーん、まあまあ」と応えたら、そのウェイターの返答に二人とも唖然としたのだそうです。「だって君たち、僕にお勧めの料理があるかどうか、聞かなかったじゃないか。料理のそばについている印は店が勧めたいだけで、おいしいとはかぎらないんだよ。僕には僕の意見があるからね」
初めて会う人に対してそう簡単には心を開かないといわれるチェコ人の気質が、レストランでも大いに発揮されたのでした。

6.6.16

ハプニングだらけの旅3 ドレスデン

ドレスデンのツヴィンガー宮殿を見てトラムで宿に帰る途中、「最寄りのスーパーに寄って食材を買っていこう」と話していたときのこと、乗っていたトラムが突然停車。しかもアナウンスで「道が封鎖されて進めないので、降りて下さい」と説明がありました。他の乗客も次々降りていくので私たちもそうすることに。
道の反対側を見やると、ちょうど向こうから大勢の人がドイツ国旗やザクセン州旗を掲げて、何か叫びながら行進しているところでした。それだけではなくて、複数の警官が急いでこちらへ駆けてくるではないですか。
その場にいた大学生らしき男の子に何があるのか聞いてみたところ、難民受け入れ反対を掲げる団体がデモ行進をしている、と言われました。
トラムの運転手のおじさんが、車内で待ってていいよと言ってくれたので中に入り、行進をひとしきり見ることに。30分ほど経ってようやく封鎖も解除され、トラムは動き出しました。
その後スーパーで買い物をして帰る途中のこと。雨が降り出して傘を差していたため、私はまったく気がつかなかったのですが、道の反対側から歩いてきた人たちが私たちをみて、"Auslaender! (外国人!)" と叫んだと友人たちが言っていました。
ドレスデンではペギダ(Pegida)と呼ばれる反イスラムグループが急速に拡大しているようで、難民の受け入れを拒否するようデモ行進をしばしば行っていることを後で知りました。つい数ヶ月前にはケルンで反イスラムを掲げる人々と警察との衝突があったばかりです。難民受け入れを巡って対立が激化していることを間近に見ることができました。反イスラムが反外国人になっていくのは現在進行形ということも。
メルケル首相は移民・難民受容に積極的なようですが、彼らをどうやって支援していくのかが問われるでしょう。イギリスでも日本でもそうですが、国の経済成長を加速させたいのであれば移民等海外からの労働力を呼び込むべき、という主張をよく聞きます。移民を「人」として見ていないような感じがして個人的にやや嫌悪感を覚えますが(足下見てるよなあと思う)、理論的に、そして数字だけ追えばそうなのかもしれません。日本の人口はこれからどんどん減っていくでしょうから。
ただし、やってきた人々の日常生活を支援していく制度等が無い限り、彼らが社会に適応していくのは難しいと思います。数年前のロンドンテロも、社会に自分の居場所が無いと感じるイスラム教徒の若者の犯行でした。日本だって、例えばムスリムの社員や学生から「日に何度かお祈りをしたいです」と言われて、「じゃあ祈祷室はこちらで」というやりとりができるところなんて、ほとんど無いでしょう。
言葉も文化も異なる人々を受け入れることの難しさと、世界情勢の深刻さを目の当たりにしたのでした。

5.6.16

ハプニングだらけの旅2 ベルリン2

財布を盗まれた後、警察に行って盗難証明書をもらい、実はイギリス大使館に行っていました。業務終了時刻が近づいていたのでタクシーに乗っていった、その道中での運転手のおじさんとのやりとり。
運転手:「ロンドンから来たんだって?エリザベス女王は90歳になったんだろう?」
私(助手席だった):「そうそう。ノインツィッヒ(ドイツ語で90)。単語合ってます?」
運転手:「合ってるよ。でも発音は、『ほおいんつぃっひ』(「ほお」で大量の息が喉を擦る音とともに)だよ」
ドイツ語学習経験者はおそらくお分かりになるだろうと思うのですが、お腹から凄まじい量の息を流しながら話すネイティブの発音を経験した次第。
この緊急事態になんてまあ間の抜けた会話をしているんだろう、と思う間にイギリス大使館到着。でも事情を話しても結局中には入れてくれなくて、宿に帰ってUKVIのホームページから手続きをすることになったのでした。

4.6.16

ハプニングだらけの旅1 ベルリン

今回は、財布をすられたことの他に、思わぬ出来事に驚いたり、色々と考えさせられることの多い旅でもありました。
まずベルリン。我々4人はスポーツにまったく関心が無かったので、当然のことながら知らなかったんですよ、まさか5月21日にDFBポカール(ドイツサッカー連盟杯)の決勝戦、バイエルン・ミュンヘン対ボルシア・ドルトムント戦がベルリンで行われるということを・・・
前日BRPビザの申請で寝るのがすっかり遅くなったため、朝遅く起床した我々は、早めのお昼を外で食べることにしました。駅のホームで電車を待っていたところ、黄色いユニフォームを着たおっさん達一行が電車から降りてくるのを見たわけです。その内何人かは手にビール瓶を抱えているし、頭には角が生えた帽子を被っているし、とにかくやたら大きい声で歌っているしで、なにやらただ事じゃないぞという雰囲気をこれでもかというほど発していました。レストランに着いてみたら、奥のガーデン席は黄色いユニフォームを着た人たちで埋まっているという状況でした。ただ、このときは小さな子供を連れた家族連れも何組かいたので、あまり気にしなかったわけです。
その後シャルロッテンブルグ宮殿を見て、夕ご飯を食べに中心部へ出ようという電車の中で、「もしかしてサッカーの試合でもあるのかな」と、そのとき初めて気づいた私。調べてみて仰天しました。だって決勝戦ですよ?昼間のファン(フーリガンというべきか)の様子から見てこれは絶対に夜危ないと思った友人Aが、「今日はすぐに帰って宿でご飯を食べよう」と強く主張し、急遽帰ることにしました。
ところが、乗り換えの駅で宿の方へ向かう電車に乗ったはずが、何をどう間違ったか反対方向に行ってしまい、しかも終点が当の決勝戦が行われるスタジアムのある駅という、とんでもないところに着いてしまったのでした。降りてみると、がっちりした体格の警官がすでに大勢詰めており、黄色と赤のユニフォームを着たファンがスタジアムへ続々と歩いて行くではないですか。
急いで駅員さんに聞いて、正しい方向へ行く電車が出発するホームへ移動した私たち。早足で移動するときにちらりと見た感じでは、警官たちはこの状況には慣れっこのようで、談笑しながら警備しているようでした。しかも、ある警官は友人Aが通り過ぎようとしたとき、「飴あるけど、どう?」とにこにこしながらロリ—ポップのようなものを差し出してからかってきました。仕事しろよ、おい。突然の警官の行動にびっくりして立ち止まってしまったAを、友人Vが「気にしないで!」と後ろから押してました。
こうして無事宿に帰ってきたのですが、夜インターネットで結果を見たところ、延長になっても0対0で、PK戦により5対4でバイエルン・ミュンヘンが勝ったとのことでした。街中に出なくて正解だったかもしれません。友人Vは、「ドルトムントのPK外しちゃった人、生きて帰れるといいね」とつぶやきました。

3.6.16

イギリス国外でBRPをなくしたらすぐにやること

先月末、20日から約一週間の予定で友人3人とベルリン、ドレスデン、プラハに行ってきましたが、初日に電車の中で財布をすられてしまいました。
思い出すのも腹立たしいのですが実に巧妙で悪質な手口でやられまして、我々4人のベルリンに対する期待度が一気に下がりました。それはもう見事なまでに。
その経緯はさておき、財布の中には大事なものがたくさん入ってるわけです。デビッドカードやクレジットカードの利用を止めるのはもちろんですが、私の場合、中にBRPカードを入れていたのが致命的でした。
Biometric Residence Permits、略してBRPカードとは、指紋認証(もちろん両手指10本すべて)を含む滞在許可証のことで、去年からはイギリス滞在が6ヶ月以上になる非EEA国籍を持つ人は、必ず申請しなければならなくなりました。イギリスに入国するときに必要なもので、これが無いと入れません。入国管理のときにこのカードを見せないと、出発地に送り返されてしまいます。たとえイギリスに家があろうと、大学の在学証明があろうと、BRPなくしては戻れないのです。
なので、旅行から帰る前に、このカード取得を申請しないといけません。イギリス国外でBRPをなくしてしまい、「現地のイギリスか日本の大使館に行けば何とかなるだろう」と思っている、そこのあなた。そう簡単には行きませんぞ。イギリス大使館と日本大使館は、BRPについては何もしてくれません。日本大使館は「それはイギリス大使館に聞いて下さい」というだけですし、イギリス大使館は「ビザのウェブサイトに行って、そこから申請してください」と答えるだけです。大使館とビザ発行業務は、イギリスの場合、別の組織のようです。
ところで、申請する前に、まず現地の警察に行って盗難届を出してもらって下さい。できるだけその日のうちに。英語で書類を出してくれるところはまず無いでしょうが、BRP申請時に必要となります。およそ親切・フレンドリーとはかけ離れたベルリン警察でしたが(これもベルリンの印象をさらに悪化させるのに役立ちました。まあ警察とはどこの国にいっても大抵こんなものかもしれない。英語でやりとりできるだけまだましと思いましょう)、盗難届を出してくれました。

では申請ですが、ここで注意したいことがあります。それは、今回申請するのは、replacement BRP visaというもので、これはBRPとは別物だということ。名前が似ているのでややこしいのですが、もしイギリス国外でなくした場合、まずはこの代用ビザを取得してイギリスに戻り、その後本式のBRPを申請する、という手順になります。このビザは発行から一ヶ月間だけ有効、その間にイギリスに一度だけ入れるというものです。なので、ビザをもらったらすぐ帰りましょう。本式BRPの申請も、結構時間がかかりますので。

では申請。UKVIのホームページから、BRPをなくしたことを届け出ます。すると、設定したメールアドレス宛にメールが届くので、そこにあるリンクから申請のページにとびます。アカウントを作ってから実際に申請作業が始まります(この作業をすると、向こうから紛失・盗難の旨を承知したことと、「1,2日で次の手順について説明するメールを返信します」というようなメールが来るのですが、向こうからの返信など待たずにすぐに申請作業を始めて下さい。結局、「ビザ申請ページに登録して申請を開始して下さい」という案内が来るだけです)。
この作業、初めてBRPを申請したときと同じくらい面倒くさいです。基本的な個人情報に始まり、過去10年の渡航歴、一緒に旅行している友人たちの氏名と生年月日等、全部で90項目以上あります。
この項目に全部答えると、顔写真と指紋を採るビザセンターの場所と日時を選びます。私の場合、ベルリンに一人残るか、友人たちと当初の予定通り行動してプラハで受け取るかのどちらかで迷いました。が、現金はすべて取られはしなかった(宿に置いていた鞄に100ユーロを残してあり、取られたのは70ユーロくらい)けれど、カードはすべて止めたのでお金の心配があり、後者を選択しました。ちょうどプラハに到着する日にビザセンターの予約枠が空いていたのは幸運としかいいようがありません。
すべて記入しおわったら、申請料金を払います。これはロンドンにいた旦那に頼みました。
また、この後TLScontactへの登録を勧められますが、これはぜひしておきましょう。というのは、このサービスの中にpriority visaというものがあり、普通のビザよりも優先して早く申請作業をしてくれるサービスを受け付けているからです。事例により異なりますが、5,6営業日でビザが届きます。私の場合は6日で届きました。もちろん有料で、結構な額を取られますが、このサービスがないと数週間(あるいはもっと)かかります。

次に、申請書類、ビザセンター予約確認の書類、身元証明の書類(supporting documents)、支払い証明書(メールでよい)、プライオリティー・ビザの申し込み確認書(これもメール)をすべて印刷します。必要そうなものはすべて持って行きましょう(警察の証明書も。事前にコピーはとって手元に残しておきましょう。私の場合、パスポート返送時に盗難証明書を返してくれました)。できれば2部ずつあるとよいかもしれません。
身元証明の書類は人によってその内容が異なりますが、私の場合は配偶者ビザなので、旦那の身元証明書も必要になります。内容は、一番最初に申請したときの書類とほぼ同じです。これは旦那がデータを一式保管していたので事なきを得ました。持っていたBRPの画像データも、以前パソコンに取り込んであったので助かりました(これがあるのとないのでは申請の進み具合に差が出るらしい)。
ベルリンにいるうちにすべてを印刷し、そこからようやく旅行を楽しむ余裕が少し出てきました。友人が連絡を取ってくれたシンガポール人の学生は、「ビザはちゃんと発行されるから安心して。準備ができたら旅行を楽しんで!」と言っていました。

さて3日後、ドレスデンから列車でプラハへ出発。私と友人Aが先に出発しました。到着してビザセンターの場所を調べた後、昼食をとり、私はビザセンターへ向かい、その間Aは観光することに。
プラハのビザセンターへ行って驚いたのは、その緩さでした。日本で申請したときは、ビザセンターに入る前にまず警備員に荷物の中身を見せ、金属探知機などで身体チェックをしたのですが、それがまったくありませんでした。待合室でも、申請に来ている人は自由に携帯をいじって暇つぶし中。
自分の順番が回ってきて受付に行くと、持ってきた書類をすべて担当者に見せ、別室に入るまで待つように言われます。このとき、パスポートと書類を返送する住所を書くように言われたのですが、ここで「あれ?」と思ったことが。
ビザホームページから申請するとき、受け取りを「ビザセンターに行って受け取る」を選択したはずなのに、なんで住所を書かないと行けないのか?と思ったのです(ビザ申請時にはパスポートをビザセンターに預けます。発行されたビザは、パスポートに貼られて返ってくるので、その受け取り先を書くようにということです)。不思議に思いながらも、旦那が取ってくれたホテルの名前と住所を書きました(この時点で、友人たちを見送る日に旦那がプラハに来てくれることになっていた)。
そして書類を持ったまま別室に案内され、顔写真と指紋を採って作業終了。受付に戻って先ほど思ったことを質問してみたところ、返ってきたのは次のような応え。
私:「申請するときに、ビザセンターで受け取ることを選んだはずなんですけど」
担当者:「ああ、ごめんなさい、ここではできないんです。見ての通り小さい役所だから私たちは書類とデータを受け取るだけで、これからワルシャワのイギリス大使館に送って発行してもらいます」
私:「ワ、ワルシャワっ!?」
担当者:「ホームページは全地域カバーできるように作られてるからそういう選択肢があったかもしれないけれども、ここはそうではなくて・・・でも大丈夫、発行されたビザはワルシャワからちゃんとその住所に送るから、安心してね。滞在先がホテルでもまったく問題ないわよ」
担当者は私を安心させるためか、にっこりしながら説明してくれましたが、これを聞いて逆に不安度が急上昇した私。そりゃお隣の国ですけど、本当に大丈夫なのか・・・でも考えてみれば、日本で申請に出した書類は、その後フィリピンに送られてビザはマニラから発行されましたから、それと同じようなものです。
ここですべての書類とパスポートを渡し、「無事発行されますように」と祈ってビザセンターを後にしたのでした。

その3日後、プラハ空港でロンドンに帰る友人たちを見送り、その数時間後に旦那と合流、その晩は空港近くのホテルに泊まって翌日市内のホテルへ移動、その4日後に無事ホテルにビザが貼られたパスポートが届きました(業者はDHLでした)。発行までに6日営業日+土日で、およそ一週間ほどかかったことになります。申請の進み具合は、UKVIの自分のアカウントから確認できますし、TLScontactからは、自分のメールアドレス宛に、書類受理やパスポート発送のお知らせが届くようになっています。DHLからも発送した旨のメールが来るので、そこに記載された番号で追跡できます。私の場合、UKVIから書類受理のメールが来るまでがやや時間がかかりましたが(土日含めて6日)、次の日には発送のメールが届き、そのさらに翌日にビザ付パスポートを手にしました。朝に届いたのですぐに飛行機を予約し、夕方の便でロンドンに帰ってきたという次第です。
到着したスタンステッド空港で私たちを迎えたのは、濃い霧が立ちこめる空の下で強風にはためくユニオン・ジャックという、これぞイギリスという風景でした。気温15度というとても6月とは思えない寒さででしたが、この光景とそれがもたらしてくれた安堵感は一生忘れないでしょう。

ビザは、きちんと手順を踏んで申請すれば必ず発行されるので、焦らず申請しましょう。これからイギリスに長期滞在するという人は、BRPを初回申請したときに提出した書類やパスポート、またBRPが届いたらその両面のコピーのデータを一式クラウドにあげておくとよいかもしれません。インターネットに接続さえできれば、いざというときにそれらを印刷してサポーティングドキュメントとして提出できます。学生であれば、入学時にもらえる在籍証明書や学生証なども。また、公共料金の支払い証明書もあるといいかもしれません。
BRPをなくしたらこういうことになる、というのは、私を含め友人たちの誰一人として知りませんでした。プラハで韓国人の友人とメッセンジャーでやりとりをしていたときに今回のことを伝えたら、彼女は"Wow..."と絶句しました。
残念ながら、SOASのホームページには対処法が載っていませんでした。留学生が多い学校のはずなんですけどね。「これだからSOASのアドミニストレーションはクソなんだよ!!」と友人たちと愚痴を言い合いました。旦那が見つけてくれた、The University of Warwick のホームページが一番分かりやすいです。
http://www2.warwick.ac.uk/study/international/immigration/current/lostpassportandvisas/

ベルリンで財布を盗まれた日の夜、必要なものに登録・申請してお金を払った後、気づけば夜中の3時になってました。その間、あらゆるホームページを探しまくり、寮のルームメートやその他友人たちに連絡を取りまくって情報を集めてくれた友人たちと、ロンドンから調べて手続きしてくれた旦那には感謝してもしきれません。
これからBRPの再発行手続きです。イギリスが、いかに毎年ビザ取得を難しくしているかを再び思い知ることになります。